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藤本真佐さんインタビュープロカツ

  1. パソコンを使えないまま"デジタルハリウッド"を立ち上げ

パソコンを使えないまま"デジタルハリウッド"を立ち上げ

渡邊:大学を卒業してからはどんなキャリアを積んできたんですか?

藤本:僕は大学2年生の時からその団体を始めたのですが、本当は日航のパイロットになりたかったんです。それで勉強をしていたんですが、なかなか会社の仕事の方が忙しくなってしまって難しくなってきて。でも、もっとクリエイティブで、しかも大きな仕事をやってみたいと思ってTV局に勤めたいと考えるようになりました。

ところが会社運営に集中するあまり、気がついたら単位が足りなくて、卒業できなくなっていたんです(笑)。その時、年商で1億5千万くらいあったので、簡単に会社を辞めることも出来ません。自分の月収も50万円位あったので、ジャガー乗っていたりして、「これは月20万の生活には戻れないな」ってねと。その辺もあって、なんだかんだあって2年留年しちゃって、さらに1浪もしているので、人より3年遅いわけですよ。

なので「ちょっと就職は無理かな」って思っていた時に、たまたま仕事で関係していた人から「デジタルハリウッド」という会社を作りたいって話があって、そこで「一緒にやりませんか?」と声をかけて貰ったんです。その頃は学生企業に飽きてきた部分があったので、その立ち上げに参加したんです。

最初は自分の会社もあったのでどうしようかなと思って、役員に相談したんですよ、「新しい仕事に興味がある」って。「今お前たちを置いていく訳にもいかないしな…」って言ったら、「僕たちでなんとかするので、藤本さんは、もっと大きな次のステージに行ってください!」って言われて(笑)寂しかったですけど、それがあったから次に行けたんですけどね。

渡邊:デジタルハリウッドは具体的にどういう事業をしている会社なんですか?

藤本:元々は、一言で言うとコンピューターグラフィックスのデザイナーの教育機関です。映画の「アバター」で使われるような立体的なCGを、半年から1年間かけて勉強して頂く場所だったんですよ。設立してから10年以上の間は、社会人向けの教育サービスしか提供していませんでした。

つまり、大学を設置するまでは、社会人や専門学校生等のお客さんだけだったんです。学校法人ではないので基本的にビジネスをする団体です。つまり、大手の英会話学校とか通信教育の会社と同じで、株式会社で教育を提供するという形ですね。

僕、実はパソコンが嫌いで、しかも学校も嫌いだったので、半年くらい立ち上げに参加するのをずっと断っていたんですよ。ただ、あまりにも熱心に誘われたのと、漠然とではありましたが、大きな夢を感じたので参加したんです(笑)。

その時の立ち上げメンバーの中心に現在の杉山学校長がいたんですけど、当時はインターネットもほとんど無い状況だった中で、彼が「今までは“ハリウッドという映画を作る場所に行って、大きな舞台装置や街を実際に作って、俳優もそこに集まって”という時代だったのが、これから先インターネットが世界中に張り巡らされて、インターネットで1人1台パソコンを持って、何処でも世界中好きな場所に居ながら映画作りに参加出来る時代になる。僕達はそれを作っていく為の人間とネットワークを作っていこう」という夢を掲げたんです。これが“デジタルハリウッド”のコンセプトだったんですよ。

渡邊:デジタルハリウッドでは教壇に立たれていたんですか?

藤本:教壇に立ち始めたのは、2002年になってデジハリに戻ってからですね。僕はデジハリを立ちあげた1994年から2年間だけ参加して、その後IMJっていうウェブの制作会社とか、TSUTAYA onlineを作る事になって、デジハリからはほとんど抜けていて、2002年にまた戻って来たんです。

なので、最初の頃はデジハリの立ち上げはしたんですけど、僕はその当時パソコンがほとんど使えなかったので、とても先生なんか出来なかったんですよね。戻って来た時には色々実績があったので、ウェブのプロデューサーの授業などをしていましたね。

渡邊:そのIMJという会社ではどんな事業をしていたんですか?

藤本:IMJという会社はデジタルハリウッド設立の2年後に出来た会社です。デジタルハリウッドの学生に対して、卒業する時に卒業課題ってあるじゃないですか。その課題で、自分の家の猫のホームページとかを作っても、就職活動では評価されにくいので、僕達が企業に行ってお題を貰って来るんですよ。

例えば、新しいTポイントカードのウェブサイトを学生に作らせてみるとか、TVコマーシャルを作らせてみるとか。そういった仕事というか課題を貰いに企業に行って、「スミマセン、学生の課題として無料でやりますから、素材をください。でも、ちゃんと学生にオリエンテーションしてください、ちゃんと審査もしてください」と言ってお願いする訳ですよ。そうすると意外にも、物凄いクオリティの物が出来上がるんです。

そうなると企業の人達がびっくりして、「お金を払うからもうちょっとやってください」となって。そういったお話が非常に増えてきたので、IMJという会社を作ったんです。ちゃんとクリエーターと発注者である企業との間をコントロールする人が必要だと思ったんです。なので、それをちゃんと仲介する会社としてIMJという会社を作って、それをずっと継続してやっていたんです。

渡邊:当時のITの活動は全く新機軸のお仕事だったと思うんですけど、周囲からの反応はどうだったんですか?

藤本:親は昔から野放し状態だったので、完全に野放しでしたね。奥さんはデジタルハリウッドを作った年に結婚したんですけど、結婚の条件がちゃんと大学を卒業する事だったんですね、向こうのお母さんから言われて。卒業するつもりはなかったんですけどね。中国語の単位が残っていて、その単位の為だけに大学のある厚木に行っていました。遠くて面倒ですし、辛かったですね(笑)。

でも、因果応報というか、僕今になって中国語を必死で勉強しているんです。このご時世で(笑)。もう1年半ぐらいやっているんですけど、「あの時、一生懸命やっておけばなぁ」って思います。(笑)